「生活」がわかっているのだろうか
だいぶ前になるけど、ある研修で受けた講座で日野秀逸先生が引用した論文が、今でも新鮮に残り、「生活」と言う意味を考える基本にしている。少し長いけど紹介したい。
私も好きな個性的な政治家の上田耕一郎氏が若い頃に、「生活の問題」という論文を書いて、岩波の『講座現代』の第一巻に収められた(上田耕一郎、岩波講座『現代』、第一巻『現代の問題性』所収、1963。後に『先進国革命の理論』、大月書店、1973、に再録)。
この論文で、上田氏は、生活という言葉の意味を、「それは第一に、いっさいの人間的諸活動を個人の場で切りとったもの、すなわち、一人ひとりの人間にとっての一個の小字宙を意味している。人間の尊厳も栄光も、その創造性も未来もすべて生活のなかにはらまれ、はぐくまれる。『一個の生命は地球よりも重い』といわれるのと同じように、一人ひとりの生活はなにものにもまして貴重であり、一人ひとりの、自己の生命と生活のかけがえのない貴重さにたいする誠実な態度が、すべての人類の生命と生活の尊重につながるものである。自分の生活を大切にすることなくして、他人の生活を尊重することはできないし、他人の生活を犠牲にして自己の生活を人間的に生ききることはできない。人間の進歩が、人間全体の物質的・精神的生活の成長と向上にあるとすれば、すべての富、すべての科学技術、あるいは芸術、理論、あるいは組織や制度もまた、結局はその社会の成員のゆたかで幸福な生活のためにあるものでなければならず、この意味では、私たちの生活とは、これらすべてのものの価値を測る究極の基準にほかならない。『生活』という言葉には、私たちのすべての希望と理想とが託されている。
しかし第二に、生活という言葉は、こうした希望や理想を裏切るきびしい現実として、生活にこめた希望や理想が高ければ高いほど、それをかちとるための毎日のたたかいとして私たちに意識される。物質的生活に思いわずらうことのない、きわめて少数の人々をのぞいて、現代に生きる私たち大多数の人間にとっては、生活とは直接的にはまず家庭の生存の維持であり、社会的体面を失わない程度の物質的条件の獲得であり、そのための苦しい労働の連続であり、その労働につくための職を得る格闘を意味している。生活のための格闘に敗北した人は、時には生存を放棄することさえある。
日本の自殺率は世界でも有数の高位に属しているが、そのなかには生活苦、事業の失敗、将来への不安と絶望、病苦など、生活問題に関連する原因がかなりのパーセンテージを占めている。死を選ばないまでも、それを下回ると貧血状態や知能の低下などの危機的症状が生まれるという生存線ぎりぎりの「最低生存費」以下の水準で生活している人々の数は、都市の労務者世帯で20%から30%に達している。生活保護世帯水準またはそれ以下の生活をしている「ボーダーライン層」は、おそらくもっとも実数に近いと思われる。最初の『厚生白書』(昭和31年度)によれば、日本全国で約200万世帯1000万人の多数にのぼり、昭和37年の東京都『都民生活白書』によれば、東京では人口の約30%300万人にのぼっている。こうした現実を離れて、生活について語ることはできない。」
今から45年前に発表されたものだが どうだろう格差社会と言われる現在を考える上で
そうでしたねぇ・・・。
「生活」と「改革」が同じ次元で議論できる、もしくは後者の視野に前者が位置づくことが新しい気がしたのです。いまでは当然のことなのですが。
投稿情報: BIN★ | 2008年8 月 3日 (日) 21:07