沖縄へ行ったのは昨年6月
家族全員の思い出が一杯の大好きな土地だ
その、沖縄について新聞に乗っていた記事を紹介する
沖縄県民の苦難の歴史を訴えた衆院外交委員会質問よりその一部。
赤嶺政賢議員、沖縄の思い語る
強奪した土地 無条件で返せ
沖縄県民が協定に反対する最大の理由は、嘉手納墓地以南の土地返還に、名護市辺野古沖への新基地建設、米海兵隊のグアム「移転」のための日本の財政負担という条件をつけるものだからです。
沖縄の米軍墓地は県民の土地を強奪して造ったものであります。
沖縄は、第二次世界大戦で、国内で唯一住民を巻き込んだ地上戦を体験しました。上陸した米軍は、住民を捕虜収容所に強制収容し、その間に軍用地・民有地を問わず基地建設に着手しました。住民が収容所から帰ると、鉄条網が張られ、自分たちの土地が基地に変えられていたのです。
サンフランシスコ平和条約が締結された1951年以降、銃剣とブルドーザーによって、米軍は抵抗する住民を強制的に排除し、基地を拡張しました。
私の生まれ育った那覇市小禄(おろく)もそうです。その集落の一つである具志(ぐし)では、米軍は「水道を引いてやる」という理由で8000坪の土地を奪いました。実際に設置されたのは水道タンクではなく、米軍のガソリンタンクでした。
私は、土がかぶせられ芝が植えられ、こんもりした丘に見せかけたこのガソリンタンクに抱かれるようにして少年時代をすごし、成人しました。結婚してもなお、ガソリンタンクは残っていました。
住民をだましうちにしてガソリンタンクを造ったあと、米軍は、大勢の武装米兵、装甲車、トラックで押し寄せ、土地とりあげに反対して座り込む住民を銃剣で殴り、軍靴でけり、頭から毛布をかぶせて、片っ端から追放していきました。銃剣とブルドーザーの土地強奪は、宜野湾市伊佐浜や伊江島など県下各地で行われました。
米軍は、戦後64年闇、県民に何の補償をすることもなく、沖縄に居座り続けました。それどころか、(1991年の)SACO(沖縄に関する日米特別行動委員会)合意以降、「土地を返還してほしいなら、それにかわる新たな基地建設を受け入れよ」といってきました。
さらに、(2006年の)米軍再編最終合意以降は、「海兵隊をアメリカに戻してはしいならグアムの基地建設まで負担せよ。それがなければ、土地返還には応じない」といってきました。
政府が米軍に土地返還を求めるなら、アメリカ政府の負担で、汚染した土壌をクリーンアップするなど、土地を元に戻して返還せよと求めるのが当然ではありませんか。強奪された土地の返還を求めたら、それに条件をつけて、それを認めなければ返せないなどということは到底許されるものではありません。
米軍基地の集中する沖縄で、美しい海を破壊して新基地の建設をパッケージでおしつけ、外国の領土であるグアムで、米軍の基地建設まで負担する今回の協定に、「納得できない」という声を上げるのは、墓地に苦しめられている沖縄県民であれば当然であります。対米追随外交、屈辱外交に沖縄県民が翻弄(ほんろう)される。そのようなグアム協定は絶対に受け入れられません。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。