上の写真は、25日撮影の「七ヶ浜町」。傷跡は残ったまま(=_=)
さて、支援に行っている仲間からのメール報告を、引き続き紹介しておきます
毎日状況が変わる避難所で今日も気になる事があった。
「子供さんが避難所に来てからおねしょをするようになった。」とお母さんから相談があった。
たまたま精神専門のDrがいたので話を聞いてもらうと、本人は小学6年生の女の子。おねしょが毎日止まらなくて、地震以来続いている。
其の女の子の話。
「津波が起こった時、友達と小学校の屋上に逃げた。津波がドンドン次々に街を飲み込んでいく。ガソリンスタンドは爆発したり、走る車も飲み込まれていく。自分達はもう死ぬんだと覚悟して学校も津波が着た。屋上までは津波が来なかったので生きられた。でも毎日繰り返し繰り返し同じこの事を想い出してしまう。
夜寝ている時も…」Drによると夜中にこのパニックを起こすPTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱える子供が他にも数人いると言う事であった。
又、素足で避難して来た自分の名前が言えない青年は質問にもわけのわからない事を言い続けていた。この青年はこの近辺の病院に明日受診する事になった。
別の仲間のメールでは
医師とペアを組み一人一人の体調を診ていきました。
最初の高齢女性は、いきなりSpo2(動脈血酸素飽和度)が82~84%と低下、救急搬送の手続きをしようとすると、付き添っていた女性が意識消失……皆疲れきってます。
別の組では、身元不明の青年(15~6歳?)発見!地震以後一人でいたようで言葉も出ません。毛布にくるまって眠っていても熟睡できない様子に、辛くて切なくて……。
午後夜間は水が出ない避難所で、アトピーが痒くて辛がっている5歳児。
踵が割れて痛いと見れば泥が挟まっている男性、などの光景があちらこちらに見られました。
避難状況も本当に悲惨で、年老いた母親と車ごと津波に流されたり、幼子三人をジャンバーの中に入れ電信柱にしがみついて守った若いご夫婦など話はつきません。
ただはっきりしていることは、被災者が疲れていることと、長期的な支援が求められていると言うことです。
昨日に続き現地からのメールより転載しておく
訪問した避難所・多賀城市立天真小学校では、今日3月24日は被災で遅くなった卒業式の日。体育館と校舎一部を避難所にしている為校舎の3階で行われていた。
元々6年生は2クラスのみ。更に、家の後片付けで出席出来ない生徒や、生きて卒業できなかった生徒も多くあり、更に寂しい卒業式になってしまった。
生徒達や父兄の服装に正装はほとんど無く、大多数が着の身、着のままの服装。ささやかな卒業式ではあったが、手作りの卒業式で温かい式であった。
未曾有の被災を受けた今年、卒業を迎えた生徒達を送る父兄や先生方、住民の方々の思いは例年にも増して一層強かったのか、「イエスタデイワンスモア」のメロディと共に卒業生を見送る列が最初は、先生と父兄だけであったのが、避難している方々が次々に列に加わった。
更に、地元のボランティアさんや復旧に来ていた工事業者の方々までもが列に加わり、その後診察が終わった私達全員も自然に送る列に加わった。
気付けば何百人もの列ができていた。
生徒達だけでなくそこにいたみんなが、送る顔も送られる顔も、涙と笑顔で一杯であった。
「この未曾有の逆境に負けず、子供たちが明るい幸せな人生を歩んでいって欲しい」という希望を…ここにいる皆が心から祈らずにはいられなかった。
今日の卒業式は私達にとっても、生徒達にとっても色々な意味で一生忘れられないだろう。
左奥の岸壁に大型漁船も乗り上げている
いま、支援らにいっている友人からメール
そのまま紹介しておく
天真小学校訪問。現在約千人が体育館と校舎に別れて避難している。
多賀城市、塩釜市から被災者の方々。先ほどの避難所もそうだったが、電気、通信、石油が確保出来るようになった事で昨日、今日、だいぶん避難所から引き上げている。しかし、まだ個人では灯油やガソリンは緊急車両優先で購入し難い。 家が流された人、車が流された人、家が泥に使った人、と様々だが、場所によって被害を殆ど受けていない人も地区によってはっきり分かれている。
被害の大きかった七北田川の川下、家が流されていない川上のほう、小高い地域。 室内犬を持ち込んでいる人もいて、プライバシーの確保されない空間で、さぞかしお互いに譲り合って我慢しあっている。
長期間に渡る大変さ。反面、助け合っている暖かさ。を感じる。
塩釜小学校 、塩釜第一小学校、塩釜公民館、塩釜第二中学校などでは比較的被害の少ない塩釜市北浜周辺から避難されている方が多く、床が着く位の津波被害にあっている。とはいえ、泥を掻き出す必要があるので日中は大体の人が家に帰って掃除をされていた。
一日、救急車のサイレンとヘリコプターの音が行く先々で聞こえる。
気軽に色々と話をして下さったが、高齢の方々の東北訛りはさすがに分かりにくい。話の内容が深刻なだけに必至で聞いたのだが、頷くのみ…
壮絶なお話の数々。
= 高齢の女性の方「津波が来た時、何故か体が動けなくてもう仕方ない。と覚悟を決めたが、近所の方が2人がかりで私を家から引きずり出した後、家の中が波に浸かった。あの時のご近所さんのおかげでこうやって生きている。」
= もう一人高齢の女性の方の話。「必至で波から逃げて来たが、先に逃げたはずの夫が何故か家に引き返した。どうも自分を助けようと引き返した様なのだが…後で自宅の庭で夫の遺体を息子が見つけた。何故あの時引き返してしまったのか?」
胸が詰まるような話ばかり…
塩竃市・港近く(3月18日撮影)
塩竃第二中学校避難所
未曾有の大災害ということを、身をもって感じた。
今回の災害は、あきらかに、阪神大震災とは大きく異なっていて、(延長線上で考えてはいけないが)。被災した範囲が広すぎることなどと、その地勢的条件で今後の「まち(生活基盤の)」の復興が厳しいことが伺えた。また、被災地とそうでない箇所がはっきりしていた。大津波被害とそうでない所の差だ。幸いに津波被害がない町並みは、表面上は全く普通であることに驚く(実際は、家の中は無茶苦茶になったりしているが、家屋倒壊はそれほど目につかなかった)。そして被災した所は、町並みそのものが無く、「まち」が消失している。いま心底、各組織の枠を超えた全国的な長期的支援の必要を感じる。今後、日本の医療界がどう動くかが、真価を試されていると思う。支援に駆けつけている各医療機関・団体の情報発信が必要だ。
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